「いやいや、参った参った。失敗失敗。」
低いとも高いとも言えない。メゾソプラノの声でぼやきながらワンピを払う。さっきの真っ白という感想は少し間違いだった。どうやらところどころ煤汚れているようだ。
「あの……。」
「ん?おやおや?なんでなんでこんなところにヒトがいるんだい。あれあれ、ボクが間違えた?」
声を掛けてようやく気付いたらしい。てかここは僕の部屋で、その足元では無視できないもっと由々しき事態が起きていることに気付いてほしい。
「違うだろ。お前が、僕の部屋に現れたんだ。そしてそこを早くどけ!」
「キミキミ、初対面相手にお前とは何様だい。」
言いながら少女は一歩後ろに下がった。彼女が立っていた場所には変わり果て無惨に砕け散った完成間近だったプラモデル。
初めて買ったはいいものの、自分の手先が慣れてから作ろうと数年の経験を積み、先日漸く手に掛けたプレミア付きの逸品だというのに。ていうかこれが欲しくて節約生活を始め、半年越しで手に入れたんだ。あ、ダメだ。色々思い出さなくてもいいような苦いものまで甦ってきた。
「なんてことしてくれたんだ!」
「いやいや、仮にも急に現れた女の子を面前にしてツッコミどころはそこなのかとボクはキミの常識判断能力を疑うよ。今のヒトはみんなみんなそうなのかい?」
「それ以前の問題だって言ってるんだ!じゃあなんだ。お前は何者なんだって訊けば満足か!?」
「うんうん。ボクは死神だ。」
「………。」
「ボクは死神だよ。死神。」
どうやら聞き違いではなかったらしい。彼女は可愛らしい様相とは真逆の言葉を口にした。
「マジで言ってんのか。」
「仮に仮に嘘だとしたら、ボクにとっては大問題なんだよ。」
「どういうことだ。」
「ボクたち死神は、正体を明かすときに死神ではないと嘘をつくのは規律違反なんだよ。」
「なんで?」
「さあさあ?昔々からのものだから。」
胡散臭い。胡散臭い、が。何もないところから急に現れたという紛れもない事実を、痛い現実と共に目撃している。ていうかプラモデルは粉砕された姿のままだ、残念なことに。コイツが、正体の真偽はどうあれここにいるという現実は認めざるを得ない。……悔しいけど。
「はぁ、できれば夢であってほしい……。」
「それはそれは心配いらないよ。」
「は?」
「ボクたちの規律はまだあってね、死神の正体をヒトに知られたら殺さなくちゃならないんだよ。」
「……誰を?」
嫌な予感がしたがもしもがあるかもしれないので一応訊いておく。
「この場合はつまりつまりキミだね。キミ。」
もしもはなかった。
「ていうかちょっと待て!そっちが勝手に死神だと名乗っておいてそれはないだろ!」
「いやだないやだな。キミがお前は何者だって言うからボクは答えたんじゃないか。」
確かに、そうだが、いや、でもあれは、
「誘導尋問だ!」
「キミがなんと言おうとボクの仕事をするのが義務なんだよ。」
そう言って何もなかった空間からバカでかい刀を取り出す。まるで佐々木小次郎の物干し竿だ。
「大丈夫大丈夫。フィギュアへの憂いも気にならなくなるよ。」
心なしか、さっきより声が高くなっている。高揚しているのか。ていうかフィギュアじゃない。プラモデルだ。ってそれどころじゃない。ちょっと待てよ。マジで待てって。死神って鎌じゃないのか。いや、鎌でも嫌だけど、洒落じゃないのはよく分かる。コイツ、マジで殺す気だ。冗談じゃない。
「そうだ。冗談じゃない。」
こんなことで死ぬなんてまっぴらだ。
といっても僕は漫画やアニメの主人公じゃないからピンチの時に超人的な何かが目覚めたりはしないだろうし、抵抗するとしたらこんなもんか。
「おやおや。死が恐くないのかい?」
「恐いさ。だから死にたくない。だからお前と戦う。」
木刀だけどな。……死ぬか。死ぬよな。リーチも違いすぎる。おまけに向こうは本物の刃だ。その上殺しのエキスパートときた。これで勝率があるなら、その計算式はきっと破綻している。大前提として、僕は宮本武蔵ではない。
「そっかそっか。ふむふむ。なら試してみよう。」
「は?」
何の心変わりか、白い死神は刀を収めた。
「キミキミ。実はボクの正体を知っていてもキミが死なないことにできる規律がひとつある。」
「は?あるの?」
彼女の声が元に戻ったこともあり、思わず肩の力が抜ける。
「ボクの下部になればいい。」
またエラいことを口にした気がする。
「なんだって?」
「ボクがキミを見逃してもいずれ別の死神が殺しに来る。でもでも、ボクの下部になれば彼らはキミに手出しできなくなる。それもそれも規律だからね。」
「デメリットは?」
「そうだねそうだね。キミが寿命を終えるまでキミはボクの下部だ。それを幸とするか不幸とするかはキミ次第だよ。」
「それ以外は今までと変わらないのか?」
「見方によるかな。ただボクが死神だってことは忘れないように。ただキミが人殺しになることはないよ。それに荷担することも。」
しかし何かしらの手伝いはさせられるのか。
ここで死ぬか、一生コイツのパシリか。前例のない、ある意味究極の選択だ。真冬の川に財布を落とした時でさえ飛び込まずに拾うって選択肢があったんだ。そっちの方がまだマシだったぜ。今はマジで命の瀬戸際が掛かってんだ。
「本当にそれだけなんだな。」
「キミがボクの下部である以上、キミの身の安全を確保するのはボクの義務だ。」
それは今日聞いた中でも一番強い声だった。
イエスなら、一生死神のパシリ人生。
ノーなら、今すぐここでジ・エンド。
「………。」
「ささ、どうする?」
僕はやっぱり、まだ死にたくない。
「分かった。なら、僕の命を守ってくれ。」
信じよう。これが現実なら、ここで死んでしまうくらいなら、この死神を。
「うんうん。じゃあじゃあ時間がない。ないから手っ取り早く済ませよう。」
「何を?」
「誓約の儀だよ。さあさあ、キミの名前は?」
「草壁翔だ。よろしく。」
「ボクはレドナ・マルアス。ふむふむ。これはこれは運命的だ。」
「大袈裟だな。」
「じゃあじゃあカケル。キミは今からボクの下部になる。いいね。」
「ああ。」
答えたと同時に、彼女、レドナはあろうことか僕の唇に自分のそれを重ねた。つまりは、キスだ。だけどそれはどういう感触なのかは、脳で感じる前に離された。あまりにも突然で、一瞬で、何も記憶に残らない至極残念なファーストキス。
「さてさてと。じゃあじゃあ場所を変えるよ、掴まって。」
ぼーっとする僕の手を掴んで、次の瞬間目の前の風景が変わった。
そこは僕の部屋ではなく、真っ白な闇の空間。上もなければ下もない。どころか、前後左右もままならない不気味な空間。広さも分からない。自分がそこに浮いているのか立っているかも曖昧だ。そしていつの間にか、レドナの手には先ほどの物干し竿が握られていた。
「なんだよ、ここ。」
「境界だよ。カケルのいる世界とボクたちの世界の境界。そして境界であり狭界でもある。」
「や、分かんないけど。」
「来るよ。」
何がと問いかけて、それは来た。レドナとは対照的な姿。真っ黒な服に黒い髪。共通点といえば瞳の色と、手に武器のようなものを持っていること。そんな二人が対峙するその様は、お世辞にも穏やかとは言えない。これから何が始まるのか、バカでも分かる。
「おいレドナ。僕の身の保証はするって言ったよな。」
「大丈夫大丈夫だよ。今のボクはさっきみたいにはいかない。今度は負けないさ。」
「………。」
ひょっとして、僕の部屋に現れたのは戦略的一時撤退のため?だからあの時服が少し汚れていたのか。
「まあまあ見てて。」
「レドナ・マルアス。今度は逃がさないってね。大人しく死になさい。」
「やなやなこった。そっちこそ自分の息の根の心配するんだね。」
互いににらみ合い武器を構える。片や物干し竿。片や槍のようなもの。それぞれのリーチは同じくらいだ。
「はぁっ!」
先に仕掛けたのは相手だった。その矛先は正に心臓へまっすぐ。当然それは読んでいたようで、レドナは難なく払いのける。しかしすぐに二撃目。払われた刃先とは逆の、持ち手の方を使った打撃技を繰り出す。しかしこれも失敗。
「すげえ。」
目の前で起きているのは剣道の試合のような競技ではない。完全な殺し合いだった。全てが急所狙いの、命懸けの勝負。
しかし、レドナの方がやや圧され気味だ。巧くかわしているとはいえ防戦一方では勝機は遠い。
「なんですか、さっきと変わってないですよ、ってね!」
「うっ!」
「レドナ!」
間一髪で避けたが、脇腹を僅かに刃が通った。彼女の白い服が赤黒く染まる。
僕は彼女に近付こうとするが、レドナはそれを制した。
「なんですか?手なんて拡げて。隙を作っているのなら遠慮なくってね!」
再び黒い少女の攻撃。狙いはもちろんレドナだ。
「そうか。」
どんなカラクリかは分からないが、黒い彼女には僕は見えていないんだ。それが、レドナに近付くとその効果が切れてしまう、のか?
「さようなら、レドナ・マルアス!」
それは初手とは逆の攻撃。持ち手側での打突を、レドナが弾く。
「ダメだ!」
僕の読み通りの攻撃が来る。黒い少女は弾かれた得物をくるりと素早く手の平で回転させ、刃先の狙いを定める。
「レドナ、ごめん!」
自分の身の安全?命の危険?そんなこと考えてなかった。だってそうだろう。目の前で人が死ぬかもしれない状況で、自分の命の方が大事だなんて、僕はそこまで歪んじゃいない。
「あっててて。」
僕は見事にレドナを突き飛ばし、覆い被さる形で着地した。振り返ると、空を貫いた槍と黒の少女の茫然とした顔を確認できた。多分、彼女からすればレドナがあり得ない体勢から横っ飛びしたことになるのだろう。
「……あ?」
「やべ。」
目が合った。
「人間?こんなところに。……はぁはぁ、なるほどな。……なかなか面白いことして下さるじゃないですかってね!」
振りかざす。これはもう、
「死んだかも。」
――ガキィイン!!
「…………え。」
気付けば、下にいるはずのレドナがいなくて、僕に向けられていたはずの槍はレドナの物干し竿によって阻まれていた。
「まったくまったく。ボクに触ったから結界が切れちゃったんだよ。あれくらいなら避けられたのに。」
「レドナ・マルアス!!」
「でもでも。まあお説教は後にしよう。さてさて、ではでは。ウィザード、アピス・フュシルド。」
不敵な笑みを浮かべているに違いない。後ろからで顔は見えないが、意気揚々としたその声はそんな表情をしていた。
――キィン!
ほんの一瞬だった。何が起こったか。物干し竿が槍を弧を描くように回し、宙に巻き上げた。
「さようなら。」
「待て、レドナ!」
「ぐあっ!」
僕がレドナを止めたのと、黒の少女が悲鳴を上げたのは同時だった。いや、僕の方がやや早かった。
「く、……がふっ!」
傷はかなり深手のようで、肩から胸にかけて大量の血が流れ出していた。しかし重傷だが致命傷ではなさそうだ。
「キミ、何を!」
攻撃を遮られ抗議の声をレドナが挙げる。
「丸腰相手は僕の主義に反する。」
「これはそんなこと言っている場合じゃないんだよ!キミの主義なんて今は――!」
「くっ!」
僕らが口論しているその隙に少女は後ろへ跳び距離を取る。
「あっ!」
「あ、逃げるな!」
レドナが追おうとするが、黒い服はすぐに白の闇へ溶け込んだ。ただ声だけが、
「あなたもさっき逃げたからおあいこってね!いつか殺します!そこの人間共々に!」
と叫び、闇に静寂が戻った。
「……終わったのか?」
「終わってないよ!キミが台無しにしてくれちゃったからね!」
「あ、ゴメン。でも。」
「もうもう、どうかしてるよ!」
それからレドナは僕に長いお説教をした。
さっきの少女はいわゆる魔法使いで、死神と敵対していること。そして彼女に見られた僕は魔法使いから命を狙われること。今の戦闘は、相手の隙を作るためにわざと隙を見せていたこと。
「まったくまったく。せっかく拾った命を10分も経たない内にまた危険にさらすなんて。」
「仕方ないだろ。本当にヤバいと思ったんだ。」
「そうかそうか。ならなら、さっき押し倒したのは主を助けようとした、キミのボクへの忠義の証と受け取っていいんだね?」
「む。」
まぁ、そういうことになるのか。
しかし、死神って言われてから失念してたけど、ほんと、かわいいよな……。長い髪は雪のようにさらさらで、触ったら本当に溶けてしまいそうなくらい、儚げな。
「どうなのどうなの?」
僕よりも身長が高いためちょっと前屈みになって返答を待つ甘えたような表情と、同時に、襟口から見えてしまった見てはいけない部分にとてつもなく恥ずかしくなり、
「さぁな!」
なので照れ隠しにとぼけてやった。
「ええー?」
それはもう本当に残念そうで、その頬をふくらませる仕草もまたかわいくて、僕はもうレドナ[この白い死神]に、とっくに魂を奪われていた。
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