2011年07月22日

しおんと小羽 # Mother or Other


―・Shion Kikuchi・―
 昂さんがいなくなってからもうすぐ半年が経つ。
 私は昂さんが住んでいたアパートの部屋にそのまま住み続けて(もちろん契約者の名義は変えている。)、バイトをしながら暮らしている。ちなみに今は学校には通っていない。先生に頼んで今年度一杯は休ませてもらっている。私が昂さんと暮らしていることを知っている人も何人かいたし、なんとなくだけど、同情をしてほしくなかったからだと思う。
 もっとも、あの刑事さんみたいに純粋に私の身を案じてくれる人もいるみたいだけど。まだたまに、一ヵ月に一度くらい家にやってきて食料品の差し入れを持ってきてくれたりする。
 「本当に、不思議な人。」
 今は昼食の支度中。あの人が持ってきた野菜を切りながら、思わずくすりと息が漏れる。
 そんな時、玄関のチャイムが鳴る。「誰だろう?」と疑問が湧く。刑事さんはまだ昨日来たばかりだ。新聞は取っていないし、勧誘は何度もお断りして先々月あたりに諦めたはず。テレビも置いていないから放送料を支払う義務は持っていない。ひょっとして刑事さんが昨日忘れ物でもしたんだろうかという推測に辿り着き、一応チェーンをセットしてからドアを開ける。
 「あ、あの、菊池しおんさんのお宅ですか?」
 可愛らしい、同年代の女の子が私の名前を訊ねてきた。細い線で描かれたような体のラインに、亜麻色に染まった髪の毛もまるで向こうが透けるくらいに細かった。そんな華奢な外見とは裏腹に稟と構えた大人びた表情に、私は見覚えがあった。
 「もしかして、昂さんの妹さん?」
 「はい。七門……今は伊織小羽と言います。」


 「どうぞ。」
 「あ、どうもありがとうございます。」
 家に上がり居間で待ってもらっていた小羽さんに、完成した肉じゃがを差し出した。
 「あの、それで今日はどうして?」
 「あ、それよりも先に頂いていいですか?夜行バスに乗ってからこっち何も食べてなくって。」
 「え、ええ。どうぞどうぞ。」
 「いただきます!」
 それからものの5分も掛からない内におかわりまで全部を平らげてしまい、「ごちそうさまでした!」と手を合わせる小羽さん。
 「いやー、しおんさん。なかなかなものですね!」
 「ど、どうも。」
 生憎このテンションの高さの知り合いは今までおらず、対応の仕方が分からないせいで先刻から曖昧な返事しか返せていない。
 「それで、話の本題なんですけど。実は先ほど玄関でも言った通り私の今の名前は伊織小羽なんですが、まあなんというか両親が離婚をしまして、それで名字も変わった次第というわけなのですよ。」
 「そうなんですか。」
 「兄が死んだ途端に、ですよ。長年不仲だったのですが、離婚に反対していた兄のお陰でなんとか首の皮一枚で繋がっていた感じでした。でも半年前に兄が死に、待ってましたと言わんばかりにあっさりと離婚が成立。私は、なんだか色々嫌になって、髪も染めて、ただ体の関係だけの彼氏も作っては捨て、……まあ、お陰でこんな状況になってしまったんですけど。」
 「小羽さん?」
 「しおんさん。あなたは兄を愛してましたか?」
 「え?」
 「私は家族を愛していました。父を愛し、母を愛し、兄を愛し、自分も愛した。だけど、他のみんなはいつの間にかそんなもの無くして、私もいつの間にか失っていて、その言葉の意味さえ分からなくなっていた。教えて下さい。兄はあなたを愛してましたか?あなたは兄を愛してましたか?」
 ああ、そうか。彼女も、そういう境遇なんだ。私とよく似ている。
 「少し、思い出話しても良い?」
 「え?あ、はい。」
 「私の父はDVな人でね、母はいつも殴られてた。ある日私と兄は母を遠縁の家に逃がしたの。あの頃の私は母を助けたかったんだと思う。でも最近思うの。実はそうじゃなかったのかも。ただ、母を憐れんでいたんじゃないかって。ただ泣くことしかできない。ただ逃げることしかできない。そんな風になりたくないって。だから私は母と別れた日も泣かなかったんじゃないかって。
 だからあの家は冷え切ってた。日差しがあっても暗かった。帰っても楽しくなかったの。でもね、昂さんは違ったの。もう昂さんだけで太陽っていうか、あたたかくて、心を照らしてくれて、まっすぐ私を見てくれてる。昂さんは、私のことを愛してくれてたと思う。
 でも、昂さんがいなくなったあの日、また光は失われた。またあの暗闇にとらわれる気がして、私は死のうと思った。でもできなかった。何でだと思う?」
 「え、っと、さあ?」
 「恐くなったの。」
 「え?」
 「おかしいよね。昂さんを愛してたはずなのに、その後を追おうと考えて引き金を引いたのに、引いた瞬間に死ぬのは恐いと思ったの。おまけに銃が不発に終わったことに気付いてほっとした。その時ね、ある人が言ってくれたの。幸せだから生きるんじゃなくて、幸せを求めて生きるんだって。不思議とそれが昂さんにも言われたことがある言葉でね。私は、その幸せっていうのが愛なんじゃないかなって思う。
 先刻小羽さんは、愛がなんなのか分からないって言ったけど、それで良いんじゃないかな。だって、答えの分かってる問題なんて解きたくないでしょう?」
 「……最後の比喩は、なんか頭のいい人の例え方でイマイチ分かりません。」
 「あれ、そう?」
 「まだ肝心な答えを聞いてません。しおんさんは、兄を愛してましたか?」
 「そんなの、決まってるじゃない。」
 昂さん、今の私、ちゃんと笑顔で答えられてましたか?


 「突然押しかけてすみませんでした。」
 「いいの?私としては泊まってくれても全然問題ないんだけど。」
 でも彼女は、ビジネスホテルを予約しているからと夕方になるともう帰り支度を始め、私は玄関でもう一度引き留めを試みている。
 「最後に一つ。母は兄を嫌いでしたが、私のことは気に入ってました。父はどちらかと言えば兄の意見は素直に聞く人でした。私は兄を好きだったので、父に付いて都外に引っ越しました。……しおんさん。」
 「なに?」
 「先程話された、お母さんは今はお元気なんですか?」
 「えと、それは……。」
 「会いにいってあげてください。」
 「え?」
 「私が今回こっちに来たのは、しおんさんに会うためと、母に会うためです。離れてみて少し分かったんです。いくら縁は切ろうと、肉親という事実は変わらない。たとえ憎かろうと、憐れもうと、親子兄妹は繋がってるんです。私には母親っていうものがどういう存在なのか未だに分かりませんが、でもきっと娘にとって、やっぱり人生相談が一番しやすいのは父親よりも母親だと思うんですよ。少なからず、女という人生の先輩であることは間違いないですからね。」
 でも、今更会っても、何も話すことなんて。
 「とりあえず私は、幸せについて話そうと思いますよ。」
 「小羽さん……。」
 「そいじゃ、機会があればまたゆっくり話しましょう!その時は是非お泊まりしますんで!」
 そう言って、小羽さんはいつの間にか呼んでいたらしいタクシーに乗り込んで、手を振って去っていった。


 一人になった居間で仰向けになって、今では顔も思い出せない顔を思い出そうとしてみた。
 「お母さん、か。」
 いったい、今までで何度口に出して呼んだことがあっただろう。物心ついた時には既に母は殴られていて、幼かった私は小学校を卒業するまで祖父母に預けられた。実家に戻っても会話することはあれど、呼んだことはあまりなかった気がする。
 『会いにいってあげてください。』
 小羽さんの言葉が何度も頭の中で繰り返される。
 「そんなこといわれても、な……。」
 住所が分からないというのは言い訳だ。そんなの兄に聞けばすぐに分かる。兄も、聞かれればすぐに教えてくれるだろう。でも私がそうしないのは、きっと兄と話したくないからだと思う。
 思わずため息が漏れる。小羽さんに、家族を愛しているかと聞かれなくてよかった。その質問には、きっと嘘でもイエスと答えられない。
 「やっぱり無理よね、今更そんな、娘だなんて。」
 ああ、ダメだな、私。こんなんでよく偉そうに講釈出来たもんだよ。
 でも人生相談、か。あんなに明るい子でも悩みってあるんだな。
 そういえば前に昂さんと、同性の子供ができたら何がしたいかって話したことがあったっけ。確か昂さんは、ドライブとお酒を一緒に呑むことだった。私は、旅行だったかな。
 逆を返せば、それは私がお母さんとしたかったことだったのかもしれない。昂さんも、あるいは。同じように、お母さんにも私としたいこと色々あったのかな。
 そう思うと、少し気が楽になった。
 その気が変わらない内に、バイトの貯金の残高を確かめるよりも前に、私はすっかり一方通行となっていた携帯電話を手に取り、初の発信履歴を付けることにする。
 ほどなく、向こう側への回線が繋がり、「もしもし、お兄ちゃん。久しぶり。」と会話を切り出した。




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posted by 秋雲 at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ARS C-side | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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