「さすが市民病院というだけあってデカいねえ。」
「なんか嬉しそうですね。」
「おうよ。俺たちが一番乗りだぜえ?それも俺がわざわざ大和市まで昼飯を食いに来たからだ。」
「まあ、いいですけど。面会なんてできないと思いますよ?」
「そうだろうよ。だから俺たちが用があるのはあっちだ。」
看護士が何人もいる受付を指さした霧積はその内の一人と二言三言話をした後、北の病棟へ案内された。もちろん碓氷も追従する。
歩が止まったのは長い廊下に立ち並ぶ部屋の中で唯一表札が貼られた、そして一番奥の扉の前だった。
「ここか。松本奏樺の主治医の部屋。」
「なんか、病院でこういう薄暗い場所って気味悪いですね。」
「なんだ?お前刑事のくせに幽霊とか信じてるんじゃねえだろうな。」
そう言いながら扉をノックする霧積に対し碓氷が言い訳をしようとしたところで、油のノリが悪い扉が重たく開いた。
「どうも。岩音警察署の霧積と碓氷です。樋継先生かい?」
北側の部屋だというのに、窓に取り付けられたシャッターブラインドは不気味さの演出に更に一役を買っていた。
「あ、はい。はじめまして。樋継健司です。……ああ。どうぞ、中へ。」
目の下に隈を残しながら実に眠たそうな挨拶を返す。およそ医師として不釣合いなのかどうかという曖昧な名を持つ彼が、松本奏樺の主治医である。年齢は三十路前ほど。おそらく交際相手はいないだろう。皺の多い白衣とボタンを掛け違えたシャツ、おそらく自分で切ったのであろう不揃いな髪型からそういう印象を受ける。
「岩音からわざわざご足労いただいて申し訳ないんですけど……、どっこいしょ。面会は難しいですよ。精神的にかなり参っている。人を見ただけで暴れだしましたからね、実際。いまはなんとか、鎮静剤を呑ませて大人しくさせていますが、長くは保たないでしょうね。……ああ、刑事さんたちもどうぞ座ってください。」
話の途中で腰を降ろした樋継医師は思い出したように二人に椅子を勧める。しかし霧積は立ったまま話を続けた。
「で、先生から見て、人と話ができるのにどれくらいだ?」
「なんともいえないですね。まだ小学3年生の子供ですから、ただでさえ親以外の大人は苦手って年頃ですし。」
「姉っ子は会わせられないのかい。」
「ああ、そういえば、この子お姉さんがいるんでしたっけ?」
「ええ、ひとつ上の、小4の姉が。」
「断言はできませんが、まあ唯一の身内ですし、何とか会話はできるかもしれないですね。事件に関わること以外の話だったら。」
「おいおいそりゃないだろう。」
「無茶を言わないで下さい。事件を思い出して暴れだしたら、また鎮静剤を使わなければなりません。子供相手に何度も服用させると、今度は彼女が死にかねない。」
「霧積さん。」
「分ぁかってるよ。ここじゃお医者様は神様だからな。」
携帯電話で本部と連絡を始めた霧積を後ろに、碓氷は樋継に質問を続けた。
「ところでその、彼女が目覚めた時、何か言わなかったですか?なんでもいいんですけど。」
「どうでしょうね。悲鳴にしか聞こえませんでしたし、こっちは抑えるのに手一杯でしたから。」
「そうですか。」
「まあ、何か分かったらお知らせします。」
「はい、よろしくお願いします。」
樋継医師と話を済ませた2人は、病院の中庭にあるベンチで日に当たりながら缶コーヒーを飲んでいた。
「で、どうなったんですか?」
「何がだ。」
「姉の女の子、会わせられそうなんですか?」
「ああ、それなら今ごろこっちに向かってるだろうよ。」
その割には、何か難しそうな顔をしている。
「どうかしたんですか?」
「いや、まあとりあえずな。」
そう言いながらコートの懐から取り出したのは、ICレコーダーだった。
「まさか、ずっと録ってたんですか?でもあの先生はそんな感じはしませんでしたが。」
「まあ念のためだ。お前はこれ持って声紋分析回してこい。」
「え、霧積さんは?」
「俺ぁ姉っ子に聞きたいことがある。」
霧積は最後の一口を流し込むと空き缶を離れた場所のゴミ箱へ投げ入れた。
「心配すんな。帰りはタクシーで帰る。」
「公費で?」
「公費で。」
「……迎えに来ますんで、終わったら連絡下さい。番号知ってますよね?」
「そうか。悪いな。番号は、おう、登録してあるぜ。」
「じゃあ、行きますけど。問題は起こさないで下さいよ?」
「おぉう。」
心の中で大きなため息をつきながら、碓氷はその場を離れた。
彼は所轄の刑事であるが、霧積のお目付役でもある。たまに暴走しがちな霧積を制止させるよう、上から云われている。ベテランである霧積には、同じベテランの忠告よりも新人の忠告の方が有効であるという判断からだった。一方霧積は、そんな碓氷の教育係を担っている。バランスが悪いようで、実はなかなか良いコンビだ。
「奏樺、大丈夫?」
「……何が?」
「何がって……。ケガとかはないの?」
「ケガ?」
「うん……。その、痛いところとか、ない?」
「ない。」
「奏樺、ごめんね。ひとりにして。こうなったの、わたしのせいだよね。奏樺、本当にごめんね。」
「ねえ、カナカって。」
「え?」
「カナカって誰?」
「奏樺?……あの、先生?」
「予想はしていましたが、最悪の結果ですね。」
「どういう意味ですか?」
「僕は君の主治医で樋継健司といいます。君が松本奏樺ちゃんではないなら、君の名前はなんていうのかな。」
「名前……。名前は、五十鈴空。」
「なにそれ。先生、どういうことですか?」
「奏樺ちゃんは心を閉ざしたということです。」
「と、まあそういうことだそうだ。」
ICレコーダーの再生を止め、霧積は腕を組んだ。
「この後もう一度医者先生と話したんだが、この妹子の状況は事件時のショックによる精神保護のための無意識の自己防衛だとかなんとか。とにかく勝手にもう一人の人格を生み出して、自分の身に起こったことをなっかたことにしたそうだ。」
背広の男とは不釣り合いなほどおしゃれな喫茶店での一角。碓氷はテーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばし、カフェインで口を潤しながら霧積の言葉を聞いていた。
「ヘヴィですね。」
「なんにしても、手掛かりはこれで減っちまった。他の砂利ん子はホシを見てねえし、医者先生も白だ。地道に物証挙げるしかなくなってきたなあこりゃ。」
確かに、自分たちが集めた手掛かりはどれも犯人に繋がることなくその意味を失ってしまい振り出しに戻った。
「そうだ碓氷。お前明日霧宮まで行け。」
「霧宮?なんで。というか、また別行動ですか?」
「ムコウからの応援要請だ。ホシは霧宮の公衆電話から犯行予告を掛けている。上の連中も承認済み、霧宮の所轄と合同捜査になるから仲良くやれととさ。俺は明日休暇だ。」
「はあ、そうですか……。ところで霧宮町の電話ボックス全て調べて回るんですかね。」
「そうだろうよ?霧宮は既に全ボックスに対し監視体制に入ってるそうだ。もっとも、犯行後に予告の電話をしている可能性もあるが。」
「そして、別の場所から掛ける可能性もある。」
「奴さんとのイタチごっこになるか、網に引っかかるか。ま、根比べだな。」
4日間で3世帯の被害。多すぎる犠牲だ。しかしこの3世帯の繋がりも共通点も今のところ見つかっておらず、犯人の意図も分からないままである。
「ところで霧積さんって、休みの日は何して過ごしてるんですか?」
「まあ主に散歩だな。例えば散歩の途中で仕事中のお前らとバッタリ会ってもそれはただの偶然だ。」
要するに休みの日でも捜査してるということか。碓氷はそれに改めて尊敬しつつも少し呆れてしまった。
「それで、明日は何処へ行くんですか?」
「言えん。そりゃ秘密だ。」
「そうですか。」
「さて、そろそろ帰るか。」
霧積が立ち上がったので碓氷もつられて席を立つ。周りを見ると学生や若いカップルの数が増えてきていた。
しかしその日以降山川町での事件は途絶えた。そのまま一ヵ月が経ち、年が明けしばらくした頃。捜査本部及び周辺各署の総合的判断により一時警備の緩和化を決定。
そしてその後、霧宮町を中心に連続通り魔事件が発生。その第4の被害者、七門昂の行動によりその犯人は捕まる。
犯人は通り魔事件についての供述の中で夫妻殺害事件の犯行を自白。警察も関与の裏付けを取り、このふたつの事件は10名の被害者の後に終幕した。
だが事件の解決は、未だしていない。